おかわり

たーんとおたべ

白ご飯のような価値

今週のお題「秋の味覚」

 

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世の中には大人でなければ理解できない価値があると思う。

「大人」と言っても、それは単に年齢を重ねただけで自動的になる大人ではなく、胸締めつけられるような心の痛み、悲しみ、寂しさ、また喜び、心弾みを伴う経験を通して成熟している状態のこと。

世の中には、子どもにもわかりやすい、テレビ映えする、カタルシスを感じやすい価値が紊乱しているけど、そんなもんポテトとハンバーガーとオレンジジュース、それからアニメのおもちゃで構成されるハッピーセットみたいなもので、大人にはちょっと胃もたれするし、味は濃いけど味気なく、滋味も深みもない。しばらくこの世で必死に生きてみないと気づくことのない、耳をすませて、目を凝らして、心をきれいなものにいつでも反応できる状態にしておかなければ見逃してしまうような価値が、この世の中にはある。

それは、誰も見ていなくても丁寧に、誠実に取り組む仕事ぶりだったり、他人の失敗や間違いに寛容なところだったり、いつでも機嫌よく過ごすこと、嫌なことがあっても気を取り直して明るく振る舞うこと、笑顔でいること、余計な一言を言わないでとどめること、相手の気持ちを考えて物を言うこと、また言わないこと、相手の話に心を寄り添わせて聞くこと、ときに涙すること……挙げればきりがない。

自分を立派に見せる、すごい人だと思わせるための価値ではなく、誰かのため、誰かの悲しみを癒やしたり、みんなの気持ちを優しくしたりするための価値。そういうのは、子どもの間は理解できない。

派手に、恥じらいもなく自分の意見をぺらぺら開陳しまくるような著名人、テレビタレントのような人たち、そんなハッピーセットな彼らを胡散臭いとも思わず賞賛し、あげくネット上や、果ては実生活においてまねてみたりする子どもみたいな大人が、心ある、優しみを持つ成熟した大人の価値に気づかず、愚かにもそういう大人をばかにするシーンをまま目にする。不愉快極まりない。ばかにばかにされることほど、尊厳を傷つけられることってない。

でも、本当の大人はそんな場面においても決してやり返したりせず、1人で悲しみを携えて黙って優しく笑ってる。「いつかわかってくれる、気づいてくれるときが来る」という期待を込めて許してくれる。なのに、見た目は大人頭脳は子どものばかどもは、そうやって相手に許してもらっていることに全く気づきもしないから始末に負えない。

子どもの私は、そんなもん見せられると腹が立って仕方ない。